夢の形は変えられる~赤毛のアンから教えられたこと~

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先日、ANNIとして東京で朗読コンサートをしてきました。
題材は「赤毛のアン」
大好きな作品です。

さて、みなさん、クリスチャンの結婚に「夢」を持っていますか?
「理想」を持っていますか?
あるいは、お相手がこんな人がいい、と夢を持っていたりしますか?

わたしも、婚活をはじめたころ、たくさんの夢がありました。

相手は、知的でしっかりしていてリーダーシップと優しさを持ち合わせた、少し影のあるような、
シュッとしてて、指がきれいで、背の高い、男らしい男性がいい。
毎日、相手とデボーションし(私が三日坊主さんなのでひっぱってほしい)、聖書の話を思う存分して、親とも仲良く・・・というか、親が気に入ってくれて・・・
できれば、岐阜を離れたくない。

ところが、これらを8割クリアしたすてきな男性に、見るも無残に振られました(笑)
いい感じだったのに、振られました(笑)

ワンワン泣きながら車を一時間走らせました。

「なぜ振られたの?どうして神様はお許しにならなかったの?じゃあ、どんな人ならいいってわけ?」
文句を言うように泣きました。

そして、一つだけわかったことがあったのです。

「これまで描いた夢はいったん捨てよう」

そして祈りました。

「神様、あなたはわたしに将来と希望を与えると約束されました。それがどんなものか、もはや私には想像できません。でも、想像できないすばらしいものを与えてくださると信じますから、神様、お委ねします!!」


そうして、次に出会ったのが、今の旦那様でした。

はっきり言って、描いていた夢と9割真逆を行く人です。
しかし、妙に一緒にいてしっくりくるのです。頭を、理屈をこえて、一緒にいたい、という気持ちが湧いていました。

「これが、まちがいだったら、神様止めてください。とりあえず、進みます」
と祈りました。

人も、親も、神も、とめなかったので、めでたく結婚したというわけです。


私たちは、夢を描きます。けれど、時として、それは形を変えることもあり、そうすることで前に進むこともできます。

「赤毛のアン」で彼女はこんなことを言います。
最愛のマシュウが亡くなり、同時にマリラとの絆を強めた後、
アンは大学進学を諦め、地元で先生になって育ての親のマリラと一緒に暮らしていくことを決心したときのことです。

************************

「今までどおり夢はあるわ。ただ夢のあり方が変わったのよ。いい先生になろうと思っているの。ここで精一杯やってみるつもりよ。
そうすればきっと最高のものが返ってくるはずよ。

前は、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見通せる気がしたの。
ところがいま『曲がり角』にきたのよ。
『曲がり角』を曲がった先に何があるのかは、わからないの。でも、きっと一番良いものに違いないと思うの。それにはまた、それの素敵に良いところがあると思うわ。
その道がどんなふうにのびているかわからないけれど、どんな光と影があるのか…どんな景色が広がっているのか…どんな新しい美しさや曲がり角や。丘や谷が、その先にあるのか、それはわからないの。」

アンは静かな幸福の花が、その道にずっと咲きみだれていることを知っていました。
真剣な仕事と、りっぱな抱負と、厚い友情はアンのものでした。何ものもアンが生まれつきもっている空想と、夢の国を奪うことはできないのでした。
そして、道にはつねに曲がり角があるのです。
「神は天にあり、世はすべてよし」とアンはそっとささやきました。

************************


今まで持っていた夢が崩れることになっても、不幸にはなりません。
今までの理想を捨てても、不幸にはなりません。

自分の根幹にあるものは、神様に産まれながらに備えられたものは、決して変わらない。

人生には曲がり角があります。

曲がり角に来て、まっすぐ歩けないな、と思ったら

是非、向きを変え、曲がってみてください。

そこには、きっと最上のものがあります。

私も、体験して、そして今があり、ほんとうにそれはそうだと思っています。

一人でも多くの結婚を祈るクリスチャンが、希望を持って歩み進めますように!

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婚活マイスターANNIとしてカワセも「牧師メンバー」におります。
※牧師ではありません。

めざせ箴言31女

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交流会で私の「結婚で励まされた聖書のみことば」をシェアさせていただきました。
それを、ここでも、皆さんにシェアしたいと思います。

決して、教えとか、これが絶対!ということではないです。
私は、教職者でも聖職者でもないし、神学校へも行っておりません。

ただ、自分が婚活していたときに、背中を押してくれた、みことばたちです。

★めざせ箴言31女

婚活をする上で、御心の人の見きわめ(笑)の前に、まず、自分がどんな女性になりたいか、ということを思っていました。
母からずっと言われていたのですが「箴言31女になれるといいよね」という言葉に
あらためて聖書を開いて読んでみたとき、とてもすてきな女性像(妻像)が浮かび上がりました。

箴言31章10節~

しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。
 心の声→(しっかりした妻をやはり男性は求めるのかなぁ。しっかりしたってどんなだろう?)

夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。
(妻に信頼し、家庭については任せられるので、旦那さんは頑張って働く・・・収益に欠けない、笑)

彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。
(夫にいいことをし、悪いことをしない!そっか、非難したり、馬鹿にしたり、、、しない)

彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。
 (お裁縫、ボタンとかほつれを嬉しそうになおす姿をイメージ)

彼女は商人の舟のように、遠い所から食糧を運んで来る。
(これは、より良い食材をもとめてあちこちのスーパーまで行くイメージ)

彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使いの女たちに用事を言いつける。
(召使はいないけど、早く起きて、食事を用意する・・・できるかなぁ)

彼女は畑をよく調べて、それに手を入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、
腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。
(畑をよく調べて・・・そうか、働いてもいいけど、仕事をよく吟味しないといけない。決まったら一生懸命腕をふるう)

彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。
(主によって生活が充分に満たされている感謝。足りない感はないってことかな?)

彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、手に糸巻きをつかむ。
(まだ働く!内職?!)

彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。
 (町でも、教会でも、やさしい・・・相談相手とか・・・)

彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。
 (家族の健康や、衣類をちゃんと管理してる)

彼女は自分のための敷き物を作り、彼女の着物は亜麻布と紫色の撚り糸でできている。
 (なんでも手作りできちゃうのね、この人・笑)

夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。
 (夫も、ちゃんと町や教会、職場で信頼を得ている)

彼女は亜麻布の着物を作って、売り、帯を作って、商人に渡す。
 (また、仕事してる・笑)

彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。
 (後の日を待ちながら遠くを見つめるほほえみは、きっとすごく美しいだろうなあ)

彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。
 (語る言葉も、知恵深く、めぐみ、良いことを言う。いきおいのおしゃべりとか、悪口でなく)

彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。
 (・・・テレビ見て菓子食ってごろごろ・・・はないのね)

その子たちは立ち上がって、彼女を幸せな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。
「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている」と。
(家族にとって自慢となる女性)

麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。
(秘訣は、美容液でもファッションセンスでもなく、主を恐れることってことか!?)

彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。
 (祝福がほんとにあるのだなぁ)

あくまで、私の心の声です。こーんな感じで、読んで、
「そりゃ、誰もが、惚れるわ!」と思わずツッコミをいれるほど。
でも、こんな女性になれるかわからないけど、なりたいって思いました。

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変わるという不安について・・・

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交流会にはさまざまな方がいらっしゃいますが、
「結婚について祈り始めたばかり」「結婚について動き始めたばかり」
という方が多いです。

初めて、結婚を意識して異性とお話したり、紹介されたり、紹介を得て初めて1対1でお話したり、婚活パーティーに参加してみたり、で
「こういうことがあるのかー!」とか「こういうこと考えさせられたー」という、発見や
人によっては壁にちょっとぶち当たったような感想をいただくことがあります。

その中で、今日は
「変わるという不安」についてのことを少し書きたいと思います。

環境が変わる、人間関係が変わる、体験が変わる、時間の使い方が変わる・・・

もっと詳しく言えば

「遠方の人ともし結婚したら、環境が変わるので、それを考えると不安」
「新しい人の新しい価値観を受け入れていったら、いままでの自分が壊れるような気がして不安」
「家族以外の誰とも同居したことがない、自分の生活ペースが乱れそうで不安」
「結婚生活がはじまったら、妻として夫としての役割ができ、自分の好きな時間がすごせなさそうで不安」
「教会が変わったら、自分の信仰生活が変わってしまいそうで、不安」

など、変化についての不安を感じて、足踏みする・・・前へ進めない。
そういうことも、あるかと思います。

私も、この気持ちはわかります。

そんなことを、ふと考えていたときに、与えられた聖書のことばがありました。

エレミヤ書の29章4節からです。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。
妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。
わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」

まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。
なぜなら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。―主の御告げ―」
まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

ご存知通り、エレミヤを通して、バビロン捕囚で連れて行かれたユダヤ人達に向けて神様が語りかけた内容です。

バビロンへ連れてかれたユダヤ人たちはさぞ不安だったと思います。
自分達がどうなってしまうのか、知らない、信仰の価値感もちがう場所で生活できるのだろうか、
帰りたい!帰りたい!帰れる日はくるのだろうか?

けれど、神様は彼らに
「その場所で生活を全うしなさい、繁栄しなさい。
いろんな人たちが言って惑わすことに聞いてはいけない。
あなたにすばらしい将来と希望を私は用意しているのだから!」
と語りかけます。

私達は、自分の経験したことのないこと、知らないことがたくさんあります。
知っているのは、過去の経験。ほんの少しの周りの人の姿、だけ。
そんな自分と全世界をお創りになった神様とでは、どちらが知恵があるだろう?

想像できないこと、イメージできないこと、経験したことないことへ踏み込むとき
だれでも不安はあると思います。

そんなときに、神様はどういっているだろう?
行け!と言ってる?行くな!と言ってる?
ほんとうは神様は行くなと言ってるのに、行ってしまったらどうしよう。
そのときは、神様がまた新しい道を用意し、守って導いてくださる!

その信頼こそが、きっと神への信仰なのではないでしょうか。

私も、婚活していたとき
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
神様は絶対私に不利なこと、悪いことはしない!という信仰を握り締めることが、とても大きな支えでした。

(結婚準備時に書いていたブログ記事:変化、こわい?)
http://ameblo.jp/anni-love/entry-11363367977.html

確かに不安だったし、見えないことも多く、何が起こってるの?ということもありましたが、
無事に今があります。
なんだかんだで最高だと思えるパートナーがいて、恵みを感じる生活があります。
神様はちゃんと約束を守ってくださっています。

是非、「変わるという不安」に揺さぶられることなく、みことばを信じて、神様にまかせて、一歩をすすめてほしいな、と願い、祈っています。

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閉ざされた扉は…

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昨年は皆さん、どんな年でしたか?

昨年からCCMは具体的に動き始め、たくさんの方々と出会うことができました。
神様が導き守って下さったことに、とても感謝しています。

けれど、個人的なことで言えば、
昨年は私にとってとても試練の一年でした。

何一つ思い通りじゃない!という一年でした(笑)

昨年の今頃、ちょうど妊活を始め、一年のビジョンは妊娠、出産、子育て、
シンガーなどの活動は控えていかなければならないかなぁ、なんて思っておりました。
そして、妊娠…そのビジョンは広がりましたが、突然の流産…
ビジョンは総崩れしました。
ショックと悲しみと、どうにもならない…私が思い通りにできることなんてないんだ、主権は神にあるのだ、ということを突きつけられました。

一番欲しい「2人の子ども」という願いの扉を、叩きつづけました。

ところが別の扉ばかり開くのです。
なぜか、子ども音楽教育プロジェクトのメンバーになり、子どものためのイベントをたくさんやることになったり、
シンガーとしての活動が増えたり、アルバムまでできちゃったり、
そしてこのCCMが始まり多くの方が集まりました…
どれも恵みでしたが、どれも一番願った扉ではありませんでした。

今年のうちに一番願ってるこの扉は開かれないだろうか?開いてくれないだろうか?
と思い叩きつづけましたが、ついぞ昨年中には開きませんでした。

でも、一年の終わりに、
とてもすっきりした気持ちで「今年は神様の計画はこうだったんだなぁ、これでよかったんだなぁ。」と深く思いました。
開かれた扉のことについて、本当に必死に頑張ったし、閉ざされてること開かれたことそれぞれから、本当に多くのことを教えられ、人生観も変わりました。

さてさて今年はどんな計画がまっていて、どんな扉が開かれるやら?

目の前の願った扉が開かない、というときはあります。

扉が開かない理由は3つあると思うんです。

一つは、今は開かない。でも時が満ちたら開く。

一つは、開く前に体験し知らなければいけないことがある。

一つは、その扉は、自分のためのものじゃない。

どれなのかをわかるには、叩き続けるしかないです。押したり引いたりのぞいたり。
扉に触れないでは100%開かないと思うのです。残念ながら自動ドアではなさそう。

そして、叩きながら神様に祈ります。
「この扉がもし御心じゃないならはっきり教えてください!そして、示された時には、私が御心に添って手離すことができますように!」と。

いつでも手離す心づもりと、主に信頼し希望を持ってトライすること。
この二つはきっと両立します。

是非、閉ざされた扉があっても、悲観せずに叩いてみてください♪

私も叩きながら、与えられる恵みも試練も受け取って歩みたいと思います(*^^*)

2015年1月

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結婚の条件

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結婚の条件…を考えるとき、大切だと思うことがあります。

それは、ウキウキドキドキ自分が心地よい生活をするための条件ではなく、

リアルに生活をする、生きていく、命の問題として考える…ということ。

だから、食べていけるか、家族を築けるか、子供を育てられるか、親を介護できるか、教会で礼拝できるか、献金できるか、奉仕ができるか、というレベルで、条件を一度考えてみる。

日本は裕福な国かもしれない。
食ってくくらいなんとかなる、と思うかもしれない。

でも、あと20年、30年経ったらどうなんだろう。

食いっぱぐれたら礼拝どころじゃなくなります。
歌ってなんかいられなくなります。
趣味や好みだの言ってられなくなります。

そういうものがなくなっても、一緒に生きていける、手を取り合って頑張れる…

そんな相手と条件を
考えてみるのもいいんじゃないかと、思います。

そして、

自分も相手を支える、寄り添える人間でありたいと願うこと。

神様に育ててもらう…

そんなことも、願い求めていけたら、いいんじゃないかと思います。

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自分の願いと神様の目

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自分でお見合いのために書いた書類を久々に発掘しました。

神様は私の願いを知っていたこと、そして、神様にとりあげられたポイントはそこかー!という発見、をシェアしようと思います。

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《結婚していく上で、どう しても妥協できないもの、またなるべく 妥協したくないこと》

聖書を読みたがらない人話し合いができない人、コミュニケーションが嫌いな人、自分ばかりを押しつける人は NGです

また、できれば、音楽や演劇を通して神様のことを伝えていけたら、と思っているので、それに理解を示してくれる人がよいです。

また、一時期、東京のハードなペンテコステ系の教会に行っていたのですが、
そこで非常に心痛い経験をしました。
できれば、ハードなペンテコステ系の方は、遠慮したいです。

《その他》

上京していた12年のうち、初めの10年は、神から離れた生き方をしていました。教会へも行かず、聖書も開きませんでした(10 年ぶりに取りだしたら聖書カバーが腐りかけていたほどでした。)
本当に地に堕ちた生き方をしていて、演劇という夢のために、いろんなことを犠牲にしました。
不安や損得勘定から、狂ったような恋愛をし、してはいけない恋愛もし、煙草も吸い続け、お金のために危険な仕事をしていたこともあります。
神様を忘れたことはなかったけれど、神に見放されたと思いながらいつも死を怖れて、絶望して・・・夢だけが自分の支えでした。
が、その夢が、自分に与えられてない道だとわかってしまって、生きる希望を失いました。そうして初めて、神に立ち戻ることを決心し、放蕩息子が帰るように、神のもとに戻り、人生が変えられました。
今は、煙草も吸わず、まじめに仕事をし、毎週家族と教会で礼拝をし、毎日聖書を読んでいます。
けれど、神の目からも人間的に見ても、本当に汚い過去を持っています。
たぶん生理的に「そういう人間は受け入れられない」という人もいるかと思います。
私の汚い過去も、愚かさも含めて、受け入れてくださる人を求めます

また、私は聖書や信仰の交わりが好きです。聖書を学ぶたびに、驚きや発見や語りかけがあり、そういうことを心おきなくシェアできる特別なパートナーがいれば、といつも思います。

また、自分の弱さも知っているので、祈りあえる人がいいです。

希望としては、
あまりしっかりしたイケテる!野心がある!ストイック!って感じの人よりも、 不器用でも目立たなくても、ほんわかと素朴で誠実、楽天的な人がよいです
(私自身が、まじめで、ストイックで、野心的で、シリアスになってしまうところがあるので、真逆の人がよいです。)

好きな御言葉:
「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべての事に感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
Ⅰテサロニケ5:16~18」

思いつくままに書いてしまってすいません・・・(> <)

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これが、私が書いたものです。結婚相談所に提出した資料の一部です。

こんなこと、書いてたんだな・・・と、自分が書いたことを忘れてたことさえありました。

神様が取上げていたところがで、取り上げられてないと思われるところがです。

「聖書を読みたがらない人はNG、信仰の話ができる人、ペンテコステ系でない」
ここは神様が取り上げませんでした(笑)
夫は、本を読むのは嫌いだし、思い描いていたような信仰や聖書についての議論を私たちはしません。そして、ペンテコステ系の教会に彼は属していました。(でも、今、私の母教会:福音派に行っています)

逆に
「音楽や演劇を通したミニストリーに理解のある人、不器用でも目立たなくても、ほんわかと素朴で誠実、楽天的な人、汚い過去も含めて受け入れてくれる人、コミュニケーションが好きな人」
というのは、驚くほどに叶えられたところでした。
夫に会ったことがある方は、きっと「わかるー」となると思います(笑)
これらの部分は、正直、こんなこと願ってたっけ?と私の中で、そこまで心にとまってなかったとこでした。
でも、神様の目には、ここがこの子達にとって大事なこと!と映っていたのかもしれません。

でも、おわかりでしょうか?

答えは、ヒントは、自分の中にあったんです。
御心の人がどんな人か・・・それを知る要素は、私の中にちゃんと与えられていたんです。

意識してなかったけれど、潜在的に知っていた。知らされていた。

だから、プロフィールを書いて、願いを書き出してみること、
そして、自分が大事と思っていないポイントも神様は取り上げてくださるかもしれない、と思うこと
そして、すべてを神様に差し出して委ねると祈ること
そして、委ねたら、もう手放すこと

是非、やってみてはいかがでしょうか(^ ^)

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年代ごとの出会い方アイディア

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私がこのCCM(婚活交流の場)を作った理由は、
私自身が婚活時代に、こういう場所があって欲しいと思ったからでした。

結婚を祈り始めて動き始めたのは31歳のときでした。

クリスチャンホームに生まれ小さい時から教会に通い、中学くらいまではサマーキャンプなどにも参加していました。
高校卒業後、上京し、都会で夢を追うことに夢中だったので、教会に行かなくなりました。
KGKにも入らなかったし、特に教会やクリスチャンの集団とも関わりませんでした。
30で夢を追う旅を終わりにし、教会と信仰に立ち戻り、実家の岐阜に帰ってきました。
そして、結婚を考え始めたのです。
考え始めたものの、自分と結婚してもらえそうなクリスチャンが、自分の周りに、ほぼいません。
クリスチャンの繋がりって、教会しかなかったのです、その時点で。
同年代のクリスチャンの友人も、教会以外にいない。出会うきっかけもわからない。
本当に手探りの思いでした。

この働きをはじめて、高校や学生のときからずっとクリスチャンの交わりを続けている人にも出会いました。教会以外にも友達がいていいな、ってすごく思います。

さて、この2年くらい、たくさんの結婚を祈るクリスチャンの方に出会って、
年代と出会い方について考えるようになりました。

学生から20代中頃までは、同年代が集まる集会やイベントに参加して、導きの人と出会う。
それが、賛美集会でもセミナーでも、この年代はすぐに恋愛に発展できます。
私は、これは悪いことではないと思っていて、付き合い方が神の前に正しければ、恋愛できるというのはとても素敵なことだと思います。このパターンで出会ったカップルは、数年のおつきあいの末、30前に結婚にするようです。

20代後半から30代半ばは、はっきり結婚を意図したイベントやパーティーが出会いの場としてオススメだな、と思います。
賛美集会やセミナーへは、そのものを純粋に満喫したい…。なので、出会いは求めて行ってないのです。また、出会い目的と思われるのも、まるでガッついてるようで、ちょっと恥ずかしい、と思う人もあるかもしれません。
そんなところで、声をかけても、かえって引かれる、逆効果、ということもあるでしょう。
でも結婚のためのイベントやパーティーなら、皆の目的は同じです。安心して出会うことができると思います。

30代後半以上は、お見合いがオススメだと思います。
結婚を意図したイベントやパーティーで年齢の高さは不利になる、という現実があるからです。
どうしても若くてかわいい、かっこいい人が人気になってしまいます。
でも、それは人気のない人が素敵な人じゃないわけではなくて、ただ集団でいるとどうしても人間は相対的に見てしまう、ということがあるのです。
だから、1対1の出会いが良いと思うのです。その人のひととなり、積み重ねてきたものなどをじっくりゆっくり見て知ることができます。自分にとってのオンリーワンのパートナーを丁寧に探し求めることができると思います。

もちろん、年代だけでは一概にいうことはできない部分もありますし、イベントや集まりの内容にもよるところもあるし、
その場で何をするか、どう居るかという大事なポイントもありますが…。

今後、クリスチャンが集まるイベントや機会は増えると思います。
是非、一つの参考にして見ていただけたらと思います。

 

 

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あこがれと御心

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婚活の交わり会で、あるキーワードがでました。

それは
「家族をつくりたい」


集まったメンバーは、結婚を祈り始め、動き始めたばかり…
(と、動いてすぐに出会えて婚約に導かれたカップル)
という方が多かったのですが、

「どうして結婚を祈り始めたのか?」
という話題について、
この声が多かったのです

「家族をつくりたい」
「一緒に教会に行く。ご飯の前に一緒に祈る。」
「子供ができたら、家族で礼拝に出て…」

とても素敵なイメージで、とても素敵な理由だと思いました。

それで充分だと思いました。

それが、きっと神様の御心なのかもしれない、と思いました。


でも、このシンプルなヴィジョンに、
だんだん考えていくうちに
「あこがれ」が入ってきます。

一緒に礼拝するお相手の顔や容姿、若さのイメージ
礼拝する教会や礼拝の仕方…

自分の理想の絵がふわわん、ふわわんと膨らんでいく…のかもしれません。

ひいては、出会い方までも想像が膨らんで……

そして、それを「御心だ(であってほしい)」と思うようになるのかもしれません。

経験から、また結婚された先輩方の多くの証から

「神様の御心は、あこがれにも思わない、思いもよらない所にある」

と言えると思います。

そして
「神様の御心は、これがきっとそうだと思えるほど確かで納得できるもの」

と思います。

どんな形かは、一人一人に神様がオリジナルのものを用意してる。
だから「あんなふうに…」という、誰かの形をなぞるような、頭の中の憧れ、とはきっと違うのかもしれない、と思います。


出会いのお手伝いをする立場としては、
「とにかく会ってみて」とおすすめをします。
それは、あこがれが御心の妨げになって、機会を失うことがないように、と願っているからです。
なぜ、そう願うかというと、私自身が、
私の結婚は私がもっていたあこがれと違い、あこがれを横に置いたときに神様の御心のように導かれた経験があるからです。


「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ。芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このようにわが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果たす」 (イザヤ55:9-11)


 「御国がきますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」 (マタイ6:10)
祈りつつ…

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出会いにかかすことのできないもの

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結婚を祈りながら、出会いを求めながら、実際に出会って交わりしたりしながら、主の導きを心待ちにする。。。そんな方もいらっしゃるかと思います 。

結婚を念頭に出会って行く中で、そして実際に自分が婚活をした中で
これは絶対欠かせないんじゃないか、と思うことがあります。

それは

「人に対して誠実であること、礼儀を守ること」


なんてことない、普通のことです。
社会人として会社などで働いてらっしゃる方なら当然そこで心がけやっていること、やれていること、じゃないかと思います。

出会った相手に誠実であること。ご縁があっても、なくても、誠実に対応すること。
きちんとお礼やお返事を伝えること。
自分のために協力してくれた方、祈ってくれた方に、誠実であること。
きちんと礼儀を守ること。
お礼や連絡をきちんとすること。


私の主人は義理と人情を親から徹底的に叩き込まれて育ちました(笑)
ときどき、やりすぎじゃない?と思うほど、その点に気を使います。
お礼は必ず直接言うこと、無理なら電話で伝える。メールじゃ無礼でしょ!というのが、彼のスタイル。

今は、メールでの挨拶や連絡が割と普通になってきているので、私はメールやSNSのメッセージ機能とかでも、気にしませんが・・・。
でも、それも、相手を見て、相手に合わせて対応を心掛けるのが、まず最初の礼儀となるかと思います。

お礼を伝える、連絡を伝えるスピードってどのくらいが礼儀の範囲内だと思いますか?

とあるアンケートでは「ビジネスメールの返信タイミング」について「24時間(1日)以内の返信を希望する」という人が60%を占めたそうです。

男性も女性もビジネス社会の中で生活していますから、プライベートの中であっても、やはりこの感覚はあるのではないかと思います。
ましてやLINEが普及し、「既読スルー」が問題になる昨今では、もっと早くレスポンスや対応を求められることもあるかもしれません。

婚活パーティーやお見合いにおいても、同じマナーを心掛けて悪いことはないと思います。
会って時間をご一緒したなら、まずはお礼のご連絡をする。(ご縁がありそうでも、なさそうでも)
関係者の方に、一報いれる。(すぐに決断ができなくても、とりあえずお礼だけでも)

自分以外の関わる人にきちんと礼儀を守る、というのは、相手に対する誠実さの表れになるんじゃないかと思います。
自分以外の関わる人に礼儀をつくし、誠実に対応することは、自分の思いや都合を横において、相手の立場をおもう、思いやりだと思います。
それは、聖書に反することではないでしょう?むしろ、聖書にかかれた愛と一致すると思います。

それが、最低限できていれば、他人や自分を傷つけることはほとんどないと思います。(ご縁があってもなくても)

逆に無礼をしてしまった場合、それがわかってても何もしない場合・・・
なにもいい事はありません。
無礼をされても、あなたに心を寄せるとか、次の出会いをすすめようとか、いい人を紹介しよう、という人はいないと思います。


ここまで、礼儀や誠実な対応について、言うのは
私自身がこれまでたくさんの無礼をしてきた人間だからです。(今もしらずにご無礼をかけていることも多々あると思いますが…m(_ _)m)
本当にこれまで多くの人に無礼なことをしてきたと思います。
そして、その分多くの人間関係の縁を切って生きてきました。
自分の気持ちを大事にして、相手に無礼をしてしまう。取り繕うこともプライドから出来ず、
結局縁を切って別の人間関係をつくりに別のコミュニティを探す、ということを繰り返した20代でした。
失ったものは本当に多かったし、そんなことを繰り返しても自分の願いは叶わなかったし、祝福もありませんでした。

そんな私が今こうしていられるのは、本当に主の憐れみと赦しがあったに尽きると思います。

だからこそ、伝えたいと思います。

出会いにかかすことのできない、大切なこと

それは、出会えるように祈る信仰とか、いっぱい奉仕をするとか、いい仕事をするとか、見目麗しくするとか、ありのままの自分を見せるとか、上手にトークできるようになるとか、いうことよりも、
まず、まず!!
人として
「礼儀を守ること、
人に対して、神様に対して誠実であること」

だと、強く強く、思います。

クリスチャンと結婚したい?

※CCMブログで書いてきたコラムをこちらでもシェアします

クリスチャンと結婚したい、と祈っている方もいるかと思います。
いや、漠然と、結婚がしたい、という方もいるかと思います。
 
なぜ、「クリスチャンと結婚したい」のでしょう?
 
考えてみたことはあるでしょうか?



私の場合は、自分の約30年(特に後半10数年の)怒涛の人生から、
自分はクリスチャンとして歩むこと、
自分の感覚を基準にして人を愛すると失敗してきた経験から、
「お見合いでクリスチャンと結婚する」ということを選びました。
詳しい証は、また改めて書きたいと思います。


クリスチャンと結婚したい。でも、なぜ?未信者と結婚すればいいじゃない、と言われる。それに反論もできない。でも、自分の気持ちとしては、クリスチャンと結婚したい、ような気がする。


そんな声を、私も耳にすることがあります。


私は、できるだけクリスチャン同士で男女が出会い導かれるお手伝いをしていくつもりです。


でも、クリスチャン同士の結婚が、絶対ではないと思っています。
絶対にそのほうが良い!!とも、言いません。


ただ、クリスチャン同士で結婚するメリットと、夫婦のどちらかが信仰を持っていない苦労については、わかります。


今日はそのことを、少し整理したいと思います。


まず、クリスチャン同士で結婚すると、二人の生活の最初から二人で神を見上げる、ということができます。トラブルなく二人で一緒に教会に通って、一緒にメッセージを聞き、賛美したりできます。
食事の前に一緒に祈ったりできます。
一緒に祈ったり礼拝したりできる・・・これが単純に恵みです。夫婦がなんだかんだ心を合わせるきっかけになります。
信仰のスタイルや、聖書や神様への向き合い方が多少違っても、心合わせて祈ることはできます。
一緒に教会に行って、同じメッセージをきいて、同じ賛美を歌って・・・という行動を通して、二人は次第に一致していく、のだと思います。


きっと、ノンクリスチャンの世界では、この一緒に何かするとか心を合わせるきっかけは、共通の趣味だったりするのでしょうけど、それは気分次第で一緒にやらなくなることもあるでしょう。
でも、礼拝は聖書に書かれてるから、神様がせよとおっしゃることだから、必ずしますよね?
気分が良くても悪くても行きますよね?・・・よね?
そういう、ちょっとした強制力のあるものが与えられているというのは、かえって恵みだなと、感じるときがあります。


私たち夫婦は、礼拝のスタイルの違う教会でそれぞれ育ちました。今は同じ教会にいって、並んで座って一緒に神様を礼拝します。家でも一緒に祈ります。どんなに喧嘩をしても、一緒に教会に行くし、ご飯や出かける前には一緒に祈ります。そうしてなんだかんだ二人が主の前で向き合い、キャラも考え方も違う二人がなんとか一緒に生活をしていくのです。


もし、私の夫が、ノンクリスチャンだったら・・・私は辛いなと思います。
一緒に教会に行けない・・・行ってもちょっと気を遣う。一緒にお祈りできない。言っている意味が通じない。価値観の土台が違ってくる。どうどうと聖書も読みにくい。死んだ後の行く先が違う・・・
とても切なくて、孤独を感じてしまいそうな気がします。
家族が主を信じてくれるようにと、話したり祈ったりするのは、相手が家族であるほど大変です。
家族であるほど、強く言えなかったりもしますよね。


これだけ忍耐しなければならないことが待っているのに、簡単に「未信者と結婚してクリスチャンにしちゃえばいいじゃない」とすすめる人もいます。
でも、本当はこれは、簡単に言えることではないと思うのです。
本当に主に示され、主に勇気を頂いて、祈りつくして向き合わなければできないことだと思います。


「ノンクリスチャンと結婚して、生涯その人の救いのために祈り続けること」と
「日本人口の1%の中から、パートナーを祈りもとめること」と
どちらが本当にハードでしょうか??


本当に、祈らされます。


でも、これは、一概にどちらが絶対イイなどと言えることではありません。
ただ、その人と神様との関係の中で、それぞれに与えられる道であると思います。
それを、真剣に祈って考えることは、大事なことだと思います。

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婚活マイスターANNIとしてカワセも「牧師メンバー」におります。
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